アンソロ(2024年10月~2025年3月)

世界を敵味方に分類して考えるひとは、孤独かもしれないがさびしくはないだろう。だれかとわかりあいたい、一緒にいたいと願わないなら、さびしさだって生じようがない。(「エレジーは流れない」三浦しをん)

「それは違う、悟史。仮に俺が島を出たとしても、それは自由なんかじゃない。ただ、孤独なだけだ」悟史は痛みを覚えて息を呑んだ。「逃げ出したい場所があって、でもそこにはいつまでも待っててくれる人がいる。その二つの条件があって初めて、人はそこから逃れることに自由を感じられるんだ」(「白蛇島」三浦しをん)

舞台の幕が上がって下りるまでの間 観客が見てるのは今の主人公でしょ 記憶があったころの彼女でなく なのに過去を基準にして結末を導くんじゃ まるでこの劇の時間に 意味がなかったみたいだ……(「やがて君になる 5」仲谷鳰)

お願いだから、私を舐めないで! 私、何もできない奴じゃないんだから。口先だけの奴って思わないで。私は……私は、脅威なの。人だって殺せるの(「嘘つきなふたり」武田綾乃)

どこかに本物の原型の世界があって そこにいる人とか起きたことを なんとか探って漫画に起こしている……という感覚 台詞とか動きとか私が決めるんじゃなくて あそこにある世界をなるべく正しく伝達するみたいな(「やがて君になる 7(あとがき漫画)」)

なんにも思わなかったのか。好きってどういうことかも分からなかったのか。好きになってもらう意味も分からないのか。(「やがて君になる 佐伯沙弥香について」)

簡単に出来たように見える行為の裏側に、費やしてきた時間が存在する。(「どうぞ愛をお叫びください」武田綾乃)

だが、坂上は分かっていない。ありのままの自分なんて、ネットで晒すようなものじゃない。人々が求めているのは等身大の僕達ではなく、ネットに適応するように作り上げられた『どうぞ愛をお叫びください』という架空の存在なのだ。(「どうぞ愛をお叫びください」武田綾乃)

直接顔を見合わせていた時は浮かばなかった文句が、次から次へと噴き出してくる。僕はいつもそうだ。言い返せなかった時のことを何度も反芻して、その度に少しずつ反論が形成されていく。次にチャンスが来たら言い返してやろうと思っているのに、そんなチャンスは大抵の場合やって来ない。(「どうぞ愛をお叫びください」武田綾乃)

妻鹿さんは手帳を捲った。月曜から土曜までびっしりと細かい文字で予定が埋められている。しかし日曜の欄だけはくっきりと空白が守られていて、ただ一文字、「山」とだけ書かれてあった。私は胸を衝かれた。(「バリ山行」松永K三蔵)

関係というものは石を次々に積み上げていくようなもので、そこには偶然というか……一度きりの形が出来上がる。それを崩してしまうともう一度、自分の手と意思で積み上げて再現するのは不可能に近かった。(「やがて君になる 佐伯沙弥香について(3)」)

あれだけ多くのことを話したのに、なぜか和具の海女小屋のことは話す気にならなかった。おれたちは、お互いに、もっとも大切なことを話さなかった。本当に大切なことは、本当に大切な人にしか話さない。自分で勝手に、堀切彩子のことを希望だと思っていたが、本当はどうでもいいような関係に過ぎなかったのだ。そして、おれの人生はそういったことの繰り返しだったと、自覚した。そのことが、最大のショックだった。(「トラベルヘルパー(55歳からのハローライフ)」村上龍)

あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。(「推し、燃ゆ」宇佐見りん)

体力やお金や時間、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが、自分自身を浄化するような気がすることがある。つらさと引き換えに何かに注ぎ込み続けるうち、そこに自分の存在価値があるという気がしてくる。(「推し、燃ゆ」宇佐見りん)

あの人には、あとどのくらい寿命があるのだろう。ふいに、そんなことが気になった。続いて、余生という言葉が脳裏に浮かぶ。礼遠と一緒にデビュー作を描き上げた頃が、自分の人生のピークだったのだと優奈は思う。あのときの自分は完璧で、幸せだった。きっともう、あのときの充足感を超える日はこれからの人生で二度とないのだろう。だったら──どうして、これからの人生も生き続けなければならないのだろう。(「いつかの人質」芦沢央)

「五千年早く生まれてればなあ」ある日、歴史の勉強中に早乙女くんがつぶやいた。「石を道具にしたり、みんなで家を建てたり、自分で狩った獣をまだ心臓の熱いうちに食ったり、さ。おれ、そういう時代にひと旗あげたかったよ」(「カラフル」森絵都)

小さな命の塊が自分の腹の中心にできて、それが成長して産道を通って生まれ、長い長い時を経て、やがて礒谷さんになり、大便を捏ねていた婆さんになり、惚けて若い女性スタッフの尻を触りまくっていた爺さんになるのかと思うと、何だか可笑しかった。人間は神聖というほどのものではないような気がした。(「燕は戻ってこない」桐野夏生)

自分になにができるのかと考えることは、自分の無力さと向かいあうことだ。(「犬の散歩(風に舞いあがるビニールシート)」森絵都)

自分には関係ない、と目をそむければすむ誰かやなにかのために、私はこれまでなにをしたことがあるだろう?(「犬の散歩(風に舞いあがるビニールシート)」森絵都)

「だから僕は思うんだよ、自分の子供を育てる時間や労力があるのなら、すでに生まれた彼らのためにそれを捧げるべきだって。それが、富める者ばかりがますます富んでいくこの世界のシステムに加担してる僕らの責任だって」「責任?」「もしくは、贖罪」(「風に舞いあがるビニールシート(風に舞いあがるビニールシート)」森絵都)

私は亡くなった祖母とは同じ部屋に起き伏しした時期もあったのだが、肝心の葬式の悲しみはどこかにけし飛んで、父のお辞儀の姿だけが目に残った。私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締切の時期に、八つ当たりの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中にうずくものがある。(「お辞儀(父の詫び状)」向田邦子)

親のお辞儀を見るのは複雑なものである。面映ゆいというか、当惑するというか、おかしく、かなしく、そして少しばかり腹立たしい。自分が育て上げたものに頭を下げるということは、つまり人が老いるということは避けがたいことだと判っていても、子供としてはなんとも切ないものがあるのだ。(「お辞儀(父の詫び状)」向田邦子)

トルストイは、鴨長明は、紫式部は、シェークスピアは、大きい部屋で書いたのか、小さい部屋か。机は大か小か。位置は真中か隅っこか。置き方はまっすぐか斜めか──。私は、物を書く人の容貌や体格はその作品と微妙に関わっているという説を持っているが、それにもうひとつ、書斎の広さと机の位置を考えなくてはならないなと思った。(「海苔巻の端っこ(父の詫び状)」向田邦子)

「時間が溜まっていくのがいいんです。タイマーだと0になってしまうけど、ストップウォッチなら5になるじゃないですか。結婚するかもしれない二人の、最初の5分間なんです」俺は息を呑んだ。婚活マエストロが指揮する最初の5分間に、たったいま居合わせている。タイマーじゃなくストップウォッチを使うのは、鏡原さんの祈りだ。これからも永遠に、二人の時間が続いていくようにと。 (「婚活マエストロ」宮島未奈)

でも、それって飛込みだけじゃなくて、なんでもそうなんだよ。沖津くんは広いところで自由に生きてきたかもしれないけど、ぼくたちの生活って、いつもなんか採点されたり、減点されたりのくりかえしなんだ。いろんなところにジャッジがいてさ、こうすればいい人生が送れる、みたいな模範演技があって、うまく言えないけどおれ、そういうのを飛込みで越えたくて……。試合で勝つとか、満点もらうとか、そんなんじゃないんだよ。もっと自分だけの、最高の、突きぬけた瞬間がいつかくる。そういうのを信じて飛んでるんだ(「DIVE!!(上)」森絵都)

そんなふうに他人のことうじうじ気にして、自分のチャンス逃して、そういうの、かなりうざいぜ。あんた、飛込みでなんかを越えたいって言ってただろ? その前に自分のそういうとこ越えろよ(「DIVE!!(上)」森絵都)

「だから、ぼくは四回半をやってやりたかったんだよね」夕闇を囲む窓枠のむこうに何かを探すように、知季は目をこらして言ったのだ。「四回半を、ぼくだけの枠にしたかったんだ」「四回半を?」「うん。四回半なんて夢みたいな話だけど、でも、だからこそ越える価値があると思った。ぼくが決めて、ぼくが越える枠。だからだれにも邪魔されない。成功すればはっきりとわかるし、だれの目にも見える。そんなクリアな枠がほしかったんだよ」(「DIVE!!(下)」森絵都)

「後悔してない?」「なにをですか」「この極端な世界の、さらに果てみたいなぎりぎりのところまで自分を追いこんでしまったことを」考えるまでもなく、要一は首を横にふっていた。「自分で決めたことだから」(「DIVE!!(下)」森絵都)

ただ、毒だとわかっている林檎を、彼女に食べさせるわけにはいきません。ですから、その林檎を彼女の前から排除したわけです。ことが起こる前に排除できて、本当に良かったと思います。ところが、絵里にしてみると、美味しそうな林檎を取り上げられたという気持ちがあるのです。時間が経てば、彼女にもそれが禍々しい毒林檎だったことが理解できるでしょうが、今はまだ難しいでしょうね。(「ラバー・ソウル」井上夢人)

人の魂は、どこにあるのだろう。香月は、翡翠と出会ってから、彼なりの仮説を組み立てていた。魂とは、空間にあるのではないか。魂は、この世界とは相の異なる空間に蓄積された情報なのかもしれない。それは喩えるなら、ネットワークを介してクラウド上に重要なデータを保存する仕組みに似ている。人の魂は別次元にあって、脳はそれを受信し、処理をしているだけなのではないだろうか。(「medium」相沢沙呼)

人間は自ら謎を解いたり、秘密を見つけたりすると、愚かにもそこにそれ以上の謎や秘密があるとは考えないものなのです。(「medium」相沢沙呼)

わたしたちの日常に、探偵はいません。率先して、あれは不思議だ、これを考えるべきだ、そこが怪しいのだと、丁寧に教えてくれる人はどこにもいない。わたしたちは、自分たちの日常の中で、なにを考えるべきなのか、なにを不思議がるべきなのか、自分自身の目で見定めなくてはならないんです。(「medium」相沢沙呼)

でもさ、もう一生のうちで、二度とこの場所に座って、このアングルからこの景色を眺めることなんてないんだぜ(「夜のピクニック」恩田陸)

「こういうの、見るのつらいな」花は、グミのパッケージを指でなぞった。 デフォルメされた動物が笑顔で遊んでいる絵柄だった。描いた誰かは、地下に閉じ込められ、水に迫られ、殺人に遭遇した人物が手に取ることは全く想定せずにデザインしたに違いなかった。小学生のころ、キャラクターがプリントされた洋服を着ていると、先生に𠮟られるのが一層惨めに感じられたことを僕は思い出した。(「方舟」夕木春央)

それまでの人生をふりかえって、あのころが私、一番充実してたなって。教壇に立つのが楽しくて、毎回なにかしらの手ごたえがあって、生徒たちからも勉強が楽しくなったのと言われて、ますますその気になって。塾教師の役目って、私、その気になればいくらでものびていく子どもたちの火つけ役になることだと思うんです。つまりはマッチですね。頭こすって、こすって、最後は自分が燃えつきて灰になったとしても、縁あって出会った子たちの中に意義ある炎を残すことができたなら、それはすばらしく価値のある人生じゃないかって。(「みかづき」森絵都)

中学のときにテレビでやっていたのを観てから、アリ首長が大好きなのだった。本当にどうしようもなく好きで、オマー・シャリフのような人に出会えるとしたら一世紀ぐらいなら待てる、とまで思いつめていた。硬派だったのだ。硬派っていうのも違うか。定期入れに写真を入れていた。しかし十九歳の時に、イギリスのバンドの男のまねっこをしている女がオマー・シャリフのような外人に出会う確率の驚くべき低さにやっと気付き、人生は妥協が大切なのだ、と急速に軟化し、まず容姿が軟化し、男の趣味も軟化し、人間性も軟化していった。が、さらに今になって考えてみると、転換以前と以後の生活に何ら大きな変化が見られないことが判明し、所詮わたしはわたしなのだとがっくりきて、そしてすぐにどうでもよくなった。(「君は永遠にそいつらより若い」津村記久子)

「ヘイ・ジュリー」という曲があって、わたしはそれをよく聴いてて。上司に小突き回されながらくだらない仕事をしている男が彼女に、君がいなければこんなことには耐えられないっていう内容で。わたしはこの男の気持ちがすごくわかるような気がする。ときどき、ぼろぼろに疲れきって帰ってきた時に、背中を撫でてくれるような絵に描いたみたいな女の子がこの世にいるのかな、って思う。わたしは、あの男のことがわかるって思うたびに、でも自分には背中を撫でてくれる女の子はいないんだなって思い出すんだよ。じゃあ、わたしはいつかやってけなくなるんじゃないかって。でもそれでもやってくんだろうな結局。そういうもんだと思う。でも、ときどき無性に、そういう子がいたらなって思う。やっていけるとかいけないとかって、そういうのとは関係なしに。(「君は永遠にそいつらより若い」津村記久子)

扇風機の前に座って、髪の毛をめちゃくちゃにあおられつつ雑炊を食べながら、ナガセは積乱雲について考えていた。夏の象徴であるような、大きく高い積乱雲の下では、雷や豪雨が起こっているのだという。しかし、それを見上げて、夏だなあ、などと考えているこちら側には、その積乱雲の下での出来事は見えない。そのことが不思議だった。ある場所から雲が見えたとき、その雲はだいたいそこからどのぐらい離れた所の上を漂っているのだろう、とナガセは考えた。のん気に夏を感じているこちら側と、すごい雨だ、雷だ! と大騒ぎになっているのであろうそちら側の隔たりが、ナガセには興味深かった。(「ポトスライムの舟」津村記久子)

アサオカが自分と同じ条件の下で苦汁をのまされていたのではないと知って、自分はやっと辞める気になったのだ、とツガワは思い出した。ここではないどこかは、当然こことは違い、そこには千差万別の痛みや、そのほかのことがあるとツガワは知ったのだった。Vが自分に信じ込ませようとしたほど、世界は狭く画一的なわけではないと思ったのだった。自分がここから離れて、その感触に手を差し伸べに行くのは自由だと思ったのだった。(「十二月の窓辺(ポトスライムの舟)」津村記久子)

僕がピアノの中に見つけたのは、その感覚だ。ゆるされている、世界と調和している。それがどんなに素晴らしいことか、言葉では伝えきれないから、音で表せるようになりたい。ピアノであの森を再現したい、そう思っているのかもしれない。(「羊と鋼の森」宮下奈都)

才能っていうのはさ、ものすごく好きだっていう気持ちなんじゃないか。どんなことがあっても、そこから離れられない執念とか、闘志とか、そういうものと似てる何か。俺はそう思うことにしてるよ(「羊と鋼の森」宮下奈都)

和音が何かを我慢してピアノを弾くのではなく、努力をしているとも思わずに努力をしていることに意味があると思った。努力をしていると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考えられる範囲内で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。それを努力と思わずにできるから、想像を超えて可能性が広がっていくんだと思う。(「羊と鋼の森」宮下奈都)

死に直面してよかったことといえば、それだね。毎日、生きてるって思って生きるようになった(「君の膵臓をたべたい」住野よる)

いや、梨花の言うとおりだった。優子ちゃんと暮らし始めて、明日はちゃんと二つになったよ。自分のと、自分のよりずっと大事な明日が、毎日やってくる。すごいよな(「そして、バトンは渡された」瀬尾まいこ)

自分が二十八歳の女ではなく、六十八歳の独居老人になったような気がした。その間にあるものはなんだろうかと考え、それは単に四十年の年数だけであって、自分は順調に六十八歳の独居老人への道を進んでいるのだろう、と納得しかかったところで、その夜の記憶は途切れた。(「カソウスキの行方」津村記久子)

そうですね。信じるからこそ、この眼で確かめなくてはならない。もし、友人を追及することになっても、その人の身になにが起こったのか、どうしてそれをしなくてはならなかったのか、大切な人だからこそ、わたしはそれを知らなくてはならないのです(「invert II 覗き窓の死角」相沢沙呼)

別荘で僕が聞かされていた「王」や「王女」は、現世での地位としての……権力者としての王や王女とは無関係だった。それは魂の「王」であり、魂の「王女」としての在り方だった。求めるものは、地位とも、虚名とも、金銭とも結びつかない。真に己の魂を震わせる「美」であり、魂によって選び抜かれた「極上のもの」だった。闇の中に在って、世界は何と美しく輝いていたことだろう!(「この闇と光」服部まゆみ)

はっきょうは「発狂」と書きますがあれは突然はじまるんではありません、壊れた船底に海水が広がり始めてごくゆっくりと沈んでいくように、壊れた心の底から昼寝から目覚めたときの薄ぐらい夕暮れ時に感じるたぐいの不安と恐怖とが忍び込んでくる、そいがはっきょうです。(「かか」宇佐見りん)

人に愛を注げるのは、愛情深く育てられたからだという人がいる。それも一面では正しいだろう。だが、それだけではないとかんこは思う。すがられたからだ、とかんこは、思った。あの受験結果の発表のとき、生まれたばかりの、頼るべき先がほかにない赤ん坊のような声を親のなかに聞いた気がした。(「くるまの娘」宇佐見りん)

もつれ合いながら脱しようともがくさまを「依存」の一語で切り捨ててしまえる大人たちが、数多自立しているこの世をこそ、かんこは捨てたかった。ずっと、この世に自分が迷惑ばかりかけるから、社会の屑だから、消えなければならない気がしていた。だが、と思う。むしろ自立を最善の在り方とするようになったこの現代社会が、そうでなければ大人になれないなどと曖昧な言葉でもって迫る人里の掟じたいが、かんこにとってはすでに用済みなのかもしれない。かんこはこの車に乗っていたかった。この車に乗って、どこまでも駆け抜けていきたかった。(「くるまの娘」宇佐見りん)

隣に、ここまで生きていた父がいる。生きているということは、死ななかった結果でしかない。みな、昨日の地獄を忘れて、今日の地獄を生きた。あの交差点、あの線路脇、あの窓の向こうで偶々生を選択し続け、死を拒み続けた積み重ねだけがここまで父を生かしてきた。それだけだった。(「くるまの娘」宇佐見りん)

モチヅキは調子がよかった。それはアザミが、相手の言うことを肯定することは大事だ、という考えでいるのとそんなに変わらないことであるのに気付いたのは、地元に戻って自転車で私鉄の線路沿いを走っている時だった。アザミははっと息をのんで、その不思議な『わかる』という感覚を紛らわせるために、強く規則正しくペダルを踏んだ。初夏の夜空は、まだ薄く橙色を滲ませて澄み渡り、アザミは少しだけ自分の頭が冴えていると感じた。めったにない感覚だった。(「ミュージック・ブレス・ユー!!」津村記久子)

しかし、このトノムラという人間は自分より恥ずかしいかもしれない、とアザミは直感した。他者に自分より多くの期待をして、自分より多く裏切られてきたかもしれない、と。(「ミュージック・ブレス・ユー!!」津村記久子)

暗闇。怪物。わたしの心のなかに暗闇や怪物は存在しているだろうか。わたしは目をつぶり、探ってみた。何もない。わたしの内側は、からっぽだ。そして、わたしの外側も、からっぽだった。ふたつの異なるからっぽがある。その境目がわたしだった。(「ハサミ男」殊能将之)

そうじゃないんだ。問題はもっと微妙な点にある。なぜ人を殺してはいけないのか? それは、人が死ぬところを見るのが不愉快だからさ。倫理や道徳とは関係ない。やさしさとも人間愛とも、同情とも共感とも無関係だ。たんなる不快感。ゴキブリを叩きつぶしたときに感じる気持ち悪さと、本質的にはまったく変わらない(「ハサミ男」殊能将之)

つまり自分は、この地球で快適に生きたいくせに、自分自身のままでいたいのだ。(「ニキ」夏木志朋)

「思ったんだよ。きみってすごく極端だ」「極端?」「流行りの音楽聴いて皆と同じになろうとしてみたり、自分の感性をひけらかしたり。自分を殺すか、むき出しで生きるか、その二択しかないなんて」二木の椅子がまた、公園の遊具の音で鳴る。決していい思い出ばかりではない子供の頃の記憶を伴って、否応なく気持ちに食い込んでくる。「自分の大事な部分をクローゼットの中に隠して生きていく方法もあるのに」(「ニキ」夏木志朋)

挑戦しないと後悔するって予感だけはあるから、決意はとっくにしたはずなのに、気付いたら何度も機会を見送ってたり。そのたんびに自分の意志の弱さが嫌になるけど、逃げたことを正当化するのも上手になっていくんだよね。またそこに自己嫌悪して、しまいには、逃げた自分にちゃんと自己嫌悪すること自体が精神安定剤みたいになって(「ニキ」夏木志朋)

あのね、勘って、オカルトじゃないよ。目とか耳とかから入ってきた情報で、確かに気付いてるんだけど、それをまだ言葉にできないのを、勘って言うんだと思う(「ニキ」夏木志朋)

自分がフィクションに対してのみ優しくなれる理由がわかった。現実の自分が嫌いなのだ。ずっと自分自身が大好きだと思っていたけれど、自分を世界の中心に据えているということと、自分が好きというのは別物だと気が付いた。(「ニキ」夏木志朋)

「でも、今、消費者が対価として支払ってるのって多分、お金じゃなくて時間ですよ」絋は、目の前の光景が少し色を変えたような気がした。それまでは乗客がみんなスマホの画面を眺めているように見えていたが、突然、移動時間という対価をスマホに向かって注いでいるように見えた。それは、世界が手を組んで、泉の発言を肯定しているような感覚だった。(「スター」朝井リョウ)

そもそも、一作で多様性描こうとしてる人多すぎじゃない? 多様性って一人でやるもんでも一作でやるもんでもなくてさ、同時代に色んな人がいて色んな作品があること、じゃん。色んな極端が同時にあるっていう状態が„多様性“なわけで、私たちは一つの極端でしかないわけじゃん。そんなの当たり前だったはずなのに、そこがごちゃ混ぜになってる感じない? 今って(「スター」朝井リョウ)

倫理的に最低な人間ばっかり出てくる最高な映画、ゴロゴロあるし。そんなこと誰だってわかってると思うけど、なんか今って、あっちもこっちも色んな方向に目配りしてるみたいな話が多くない? バーンって突き進んでみれば意外とそれでいいかもしれないのに、全方向に対して„大丈夫ですよ〜あなたの生きづらさもナデナデしてあげますよ〜社会が良い方向に変わる答えが描かれてますからね〜“みたいな空気のものばっかりだよね、特にあんたたちの世代が創るものって(「スター」朝井リョウ)

いくら老害とか古いとか言われようと、私はずっと気持ち悪い。だって、影響力があるとか有名だとかっていうのはあくまで„状態“なわけ。中身じゃない。再生回数が多いっていうのはその人の状態で、大切なのはどんな中身が再生されてるか、でしょう(「スター」朝井リョウ)

「あんたが考えてることって多分、だいぶざっくり言っちゃえば、この世界とどう向き合うかって話なんだよ」窓の外では、雪が降っている。「おかしな等号だらけの世界に対して、自分はどういう判断基準を持つのかっていう話」世界を四角く切り取る窓枠の中を、白くてやわらかい雪が、ふわふわと揺れながら落ちていく。「そういうことを根詰めて考えられるのって、人生の中で本当に一瞬なんだよね。世界と向き合うとき、こちら側が自分ひとりだけでいい時間。立場とか責任とか生活とか、そういうことを脱ぎ捨てて世界と向き合える時間」(「スター」朝井リョウ)

受け手が作品に触れやすくなるならば、その分、作り手は表現を磨くべきだ。自分自身の見栄えや、自分がどう見えるかというところに心を砕くべきではない。どんな立場、背景の人にも簡単に届くようになるからこそ、どんな意図の下その表現を選び取ったのか説明できるほど考え尽くすくらいがちょうどいい。それは多方面に配慮して品行方正なものを作れっていうことじゃない。どんな状況であれ、作り手は、自分の感性を自分で把握する作業を怠ってはいけないということだ(「スター」朝井リョウ)

それより、これが自分の作品ですって差し出すときの心に嘘がないかどうか。俺は、そこが気になる(「スター」朝井リョウ)

たとえ自分のいる小さな空間内に差し出すときでも。たとえ、騙されたがっている人に差し出すときでも。それが越境したとき、騙されたがっているわけではない人の手に届いたとき、差し出した人間として堂々としていられるものを創れたのかどうか。「それが、この世界と向き合うときの、俺なりの姿勢なのかもしれません」(「スター」朝井リョウ)

でも僕は臆病だし、正義って何なのかわからなくなった。だからあの人たちが、もうとっくに死んでて、復讐しなくてすめばいいなって思うよ(「ベルリンは晴れているか」深緑野分)

私は夢想していた。自分のひからびた脳味噌を頭の中から取り出し、砕き、水に浸す。ほどよい状態に再生したら、それを頭に戻す。そして私は長い微睡みのような状態から覚醒する。馬鹿げた空想だとはわかっていたが、私はそれが現実になりはしまいかと、半ば本気で願った。(「明日の記憶」荻原浩)

好きなものが食えて、そこそこいい思い出もいくつかあって、三が日に会う予定の友達もいる。そんなもの子供の時とほとんど変わらないじゃないか、と言われたらそうなのだが、それの何が悪いのだろう。(「ワーカーズ・ダイジェスト」津村記久子)

恵まれた人生だと思った。母親の婚約者に家から閉め出されて、夜の十時に公園で本を読んでいた子供が、大人になって自分の稼ぎで特急に乗って、輝く渓谷をぼんやり眺めている。自分を家から連れ出す決断をした姉には感謝してもしきれないし、周囲の人々も自分たちをちゃんと見守ってくれた。義兄も浪子さんも守さんも杉子さんも藤沢先生も榊原さんも、それぞれの局面で善意を持って接してくれた。自分はおそらく姉やあの人たちや、これまでに出会ったあらゆる人々の良心でできあがっている。(「水車小屋のネネ」津村記久子)

こいつ順位表見てないのか、という驚きと、それでも弘前のアウェイの試合の行けるところには行っている、という事実の落差に、貴志は、自分はなんだか窮屈なところにいたのではないか、という疑いが胸を衝くのを感じた。自分でも少し驚くような価値観の変化だったが、不快ではなくて、むしろ、空の下で食事をするのと同じような開放感があった。(「ディス・イズ・ザ・デイ」津村記久子)

前は一人で昼ごはん食べるのなんか寂しそうで恥ずかしいとか、話したいことがある時に相手をつかまえられないのって人間として大事なものが欠けてる、みたいに思ってたけど、今はそうは思わなくなった。でもその代わりに、ずーっと一人で冷たい広い川を渡ってる感じ。つまんないのが普通で、でもたまにいいこともあって、それにつかまってなんとかやっていく感じ。富士山の試合があってくれるっていうことはさ、そういうとこに飛び石を置いてもらう感じなのね。とりあえず、スケジュール帳に書き込むことをくれるっていうか。それってなんかむなしそうだけど、でも、勝負がかかってんのは事実なんだから、べつにむなしくもないんだよ(「ディス・イズ・ザ・デイ」津村記久子)

「マナちゃんが犯人? ないない。マナちゃん、天然のお気楽キャラだもん。人なんて殺せませんって」「天然と見せかけて腹黒いってのもよくあるだろ。『とらドラ!』の川嶋亜美ちゃんとか」(「体育館の殺人」青崎有吾)

弁護士にできることなんてそれくらいのことなんだよ。恐喝をなかったことにしたところで、少年が本当に救われるわけがないのにさ。そういうのはさ、スランプ中のバッターに、キャッチャーのサインを盗んで教えるのと一緒なんだよ。その場しのぎなんだ。選手に本当に必要なのは、狂ったバッティングフォームを直してあげることなのに(「チルドレン」伊坂幸太郎)

「悩み事で、うんざりすることってあるでしょ? でも、何かの拍子にその悩みが大したことじゃないって気づくわけ。なーんだ、気にすることなかった。良かった、良かった。何、あんなに深刻に考えてたんだろうなあって」「ああ、そういう時ってあると思う」「ね。その時の気持ちが、白色」(「チルドレン」伊坂幸太郎)

うまくは言えないんだがな、たとえば、ある時、世界中の誰もが、自分の子供に対して、「他人を苛めるくらいなら、苛められる側に立ちなさい」と教えることができたなら、今の世の中の陰鬱な問題はずいぶん解決できる気がするんだ。そういう考え方の人間だらけになったら、な。ところがどうだ、現実的には誰もそんなことはしない。「苛めっ子になれ」と全員が願うほかない。被害者よりは加害者に、だ。ようするに結局は、自分たちが悲劇に遭わなければ良い、と全員が思っている状態なわけだ(「オー! ファーザー」伊坂幸太郎)

そういう一喜一憂を延々と繰り返すことこそが、十喜子にとっては日々を暮らすということだった。むしろ人生には一喜一憂しかない、と十喜子は感じていた。えらい人は先々のことを見据えてどうのこうの考えられて、八喜三憂とかに調整できるのかもしれないけれども、我々しもじもの者は、一つ一つ通過して、傷付いて、片付けていくしかないのだ。そうする以外できないのだ。(「ポースケ」津村記久子)

それから長い年月が流れて、私たちがもっと大きくなり、分刻みにころころと変わる自分たちの機嫌にふりまわされることもなくなった頃、別れとはこんなにもさびしいだけじゃなく、もっと抑制のきいた、加工された虚しさや切なさにすりかわっていた。どんなにつらい別れでもいつかは乗りきれるとわかっている虚しさ。決して忘れないと約束した相手もいつかは忘れると知っている切なさ。多くの別離を経るごとに、人はその瞬間よりもむしろ遠い未来を見据えて別れを痛むようになる。(「永遠の出口」森絵都)

管理できない数を保護するのはいいことでもなんでもなくただの共存の放棄なんですよ 現在のシカがいい例じゃないですか かつての保護政策の影響で今 大量に捕殺しなくてはいけない状況になってるんですから 共存っていうのは動物と仲良く肩を並べて歩くことではなく 互いの生活圏にきちんと線を引いて 駆除と保護のバランスを考えることです(「罠ガール(9)」)

「さっきの、出会いの話だけど、結局、出会いってそういうものかなあ、って今、思ったんだ」「そういうものって、どういうもの」「その時は何だか分からなくて、ただの風かなあ、と思ってたんだけど、後になって、分かるもの。ああ、思えば、あれがそもそもの出会いだったんだなあ、って。これが出会いだ、ってその瞬間に感じるんじゃなくて、後でね、思い返して、分かるもの」(「アイネクライネナハトムジーク」伊坂幸太郎)

いいか、藤間、外交そのものだぞ。宗教も歴史も違う、別の国だ、女房なんて。それが一つ屋根の下でやっていくんだから、外交の交渉技術が必要なんだよ。一つ、毅然とした態度、二つ、相手の顔を立てつつ、三つ、確約はしない、四つ、国土は守る。そういうものだ。離婚だって、立派な選択だ。ともにやっていくことのできない他国とは、距離を置くほうがお互いの国民のためだからな(「アイネクライネナハトムジーク」伊坂幸太郎)

この連中を動かしているものは、結局のところ、──自分ならこの程度のことは出来なければならない。という恐ろしいほどの自負心だけなのだ。(「ジョーカー・ゲーム」柳広司)

何かにとらわれて生きることは容易だ。だが、それは自分の目で世界を見る責任を放棄することだ。自分自身であることを放棄することだ(「ジョーカー・ゲーム」柳広司)

「どうですか、あれが俺の当たり牌ですよ」西嶋は勝ち誇るかのように言って、そしてテーブルに残っている鳥井に向かって、「な、な、おい、鳥井、見てくださいよ。ドラ3ですよ」とまくし立てている。(「砂漠」伊坂幸太郎)

終業式の前日、これが最後の話なんで、と森野はヤザワとヒロシに声をかけてきたが、ヤザワは、忙しいです、と言って帰っていった。実際ヤザワは、終業式が終わったらすぐに、母親の運転する車に乗って大阪を出発するらしい。ヒロシは、短い時間やったらええっすよ、と承諾した。別に長い時間でも良かったのだが、そう言ったほうがかっこいい気がした。(「エヴリシング・フロウズ」津村記久子)

「思い通りになることが多かったら、逆にどうにもならんことばっかりが気になるんかも。知らんけど」野末は呟くように言って、静かに階段の方に向かって歩き始める。ヒロシもそれに続く。自分はどちらかというと、関わることも世間で起こってることも九割がたが思い通りではないな、と考えながら。(「エヴリシング・フロウズ」津村記久子)

なんとなく、深追いするのは良くないと思ったので、ヒロシはそこでやめる。大土居は、ヒロシと何も共有したくないのかもしれない。ひけらかすのが嫌いなタイプなのかもしれない。けれどヒロシは、あまり残念には思わなかった。そこで自分が追及をやめられたことのほうに価値があるような気がした。(「エヴリシング・フロウズ」津村記久子)

自分が地図なら、どのくらいの大きさの島が消えたのだろうと思いながら、サドルに乗ってペダルを踏む。きっとオーストラリアぐらいだ。それが大きいのか小さいのかはわからないし、話して参考になることを言ってくれるような相手もいない。でもべつに誰かに言いたいとも思わなかった。ただ、ずっと自分はその空白を持ち続けるだろう、とヒロシは確信しながら、少しペダルを踏む力を強くした。(「エヴリシング・フロウズ」津村記久子)

まだ少し陽が沈み、眩しさを増した。ヒロシは片目を手で覆いながら、一度は海に捨てられたヤザワの自転車が、空中をのぼってゆくさまをじっと眺めていた。走っている途中に時間を止められたトムソンガゼルのようだと思った。(「エヴリシング・フロウズ」津村記久子)

仲がいいわけでも悪いわけでもない、顔と苗字だけ知ってるって程度の、中途半端な関係のクラスメイトがたくさんいて。そんな人たちと無理に話を合わせながら三年間過ごして。窮屈で居づらくて、気まずかった。青春ってきっと、気まずさでできた密室なんだ。狭くてどこにも逃げ場のない密室(「早朝始発の殺風景」青崎有吾)

「そういう時にね、考えてみるの。あの猫は道をふらふら歩いている時に、どこかの老夫婦に拾われて、今頃、暖炉の前で穏やかに眠っているだろう。可愛いネズミがいてもいいわ。ジェリーと仲良く追いかけっこしてたりね」「それがどうしたんですか」「それこそが作り話の効力よ。物語は、時々、人を救うんだから」(「SOSの猿」伊坂幸太郎)

うん 私も三つ峠の時そんなカンジだったなぁ〜 ずっと自分一人で登って 景色も達成感も全部独り占めしてたけど 自分の好きなもので人が喜んでくれるのも嬉しいなって(「ヤマノススメ 9」しろ)

いつもより遅くて長い帰り道を歩きながら、千春は、これがおもしろくてもつまらなくてもかまわない、とずっと思っていた。それ以上に、おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたいと思った。それで自分が、何にもおもしろいと思えなくて高校をやめたことの埋め合わせが少しでもできるなんてむしのいいことは望んでいなかったけれども、とにかく、この軽い小さい本のことだけでも、自分でわかるようになりたいと思った。(「サキの忘れ物」津村記久子)

俺はおまえがクズでおまえに傷付けられてるから女の子をさらう権利がある。でもその対象がおまえの娘じゃないなんて皮肉だよな。そのことを考えるたびに、望は頭の中で何かがずれていくような感触を味わう。スリルと言ってもいい。ジェットコースターの滑り出しにも似ている。望はそれに、めまいのような感覚を覚える。何重にも何かを軽蔑できているような気分になる。自分を取りまく不遇を蔑むという意味で、自分がもっとも合理的な行動をとろうとしていると思えるのだった。(「つまらない住宅地のすべての家」津村記久子)

ならば自分は、彼女に恥じない人間でいるべきなんじゃないだろうか。自分が罪を犯すようなことを、彼女に共有させてはいけないのではないか。布宮エリザは絵以上の存在だと望は思いたかった。自分が彼女にそれだけの力を与えたいのであれば、自分は彼女に恥をかかせるようなことをしてはいけないのではないかと、望は思い至った。(「つまらない住宅地のすべての家」津村記久子)

私が産んだ子ですから。この世に登場させた責任が私にはありますので。一生こういう生活を続けるしかありません(「息をつめて」桂望実)

いつもそうだ、違う人間を交えているときには彼と親しく会話することはほとんどない。取り繕っているのではなく、親密すぎるのだ。長く話をすると、その気配が周囲に漏れてお互いに居心地が悪くなってしまう。(「ナラタージュ」島本理生)

手紙をもらった後もどうすればいいのか分からず、あいつの携帯電話にメールを送ったら返事がなくて、その時点で俺は動くべきだったのにひとまず明日でいいやって思った。俺は今でも毎晩のように考えるんです。あのときなんとかできたのは世界にたった一人しかいなくて、それが俺だったことを。(「ナラタージュ」島本理生)

エデンの婦人服販売員が「たいした仕事じゃない」なんて、とんでもない間違いだった。単に私が「たいした仕事をしていない」だけなのだ。(「お探しものは図書室まで」青山美智子)

どんな本もそうだけど、書物そのものに力があるというよりは、あなたがそういう読み方をしたっていう、そこに価値があるんだよ(「お探しものは図書室まで」青山美智子)

作る人がいるだけじゃ、だめなのよ。伝えて、手渡す人がいなきゃ。一冊の本が出来上がるところから読者の元に行くまでの間に、いったいどれだけ多くの人が関わってると思う? 私もその流れの一部なんだって、そこには誇りを持ってる(「お探しものは図書室まで」青山美智子)

君のやりたいようにしたらいいと思うよ、とフカボリは胸のうちだけで無責任に言う。どん詰まりになっても、その場その場で何かがやってくる。フカボリはなんとなく、自分がそういった実感を持てるようになってきたのだということに気が付く。どこでそんな人間になったのだろうか。もう年なのだろうか。仕事でいろいろあったからか。大雨の日にトンネルの中で溺れそうになったからか。(「ウエストウイング」津村記久子)

中学の定期考査で思ったような成績を取れなかった──高校受験で頑張ればいい。高校受験に失敗した──大学受験で本気を出せばいい。それさえも失敗した──気にする必要はない。いい会社に入ればいいんだ。でもいい会社に入れなかったら──(「六人の嘘つきな大学生」浅倉秋成)

私から言わせれば、生き残ったこの三人にしたところで、遅かれ早かれいつかは死ぬのだから、大した違いはないように感じられた。人間というのはいつだって、自分が死ぬことを棚に上げている。(「死神の精度」伊坂幸太郎)

だってほら舞菜は生きてることがわたしへのファンサだから(「推しが武道館いってくれたら死ぬ 2」平尾アウリ)

せめて無理なんかしてないよって 舞菜の為に働くの楽しかったよって言いたかった…(「推しが武道館いってくれたら死ぬ 3」平尾アウリ)

戦争では人が死に、学生運動でも血が流れた。それはそれで終わったことと見切りをつけ、わけのわからない豊かさに包まれてみると、社会は妙にとりすました大人の顔になった。面と向かって争わず、まして血など流さず、代わりにルールとか分別とかが幅をきかせ、善行だとか人のためとか、そうした正論の濾過器に世の中すべてがかけられていった。しかし、そもそも成熟社会などありえない幻想だから、正論では濾過しきれない矛盾だらけのブツブツが残ってしまう。なんというか、正論社会への疑念と憎悪がごちゃ混ぜになったような手ごわいブツブツが──(「ルパンの消息」横山秀夫)

こんなにいっぱいいるのにわたしの世界には舞菜だけだ 一番とかじゃなくて舞菜だけなんだよなあ(「推しが武道館いってくれたら死ぬ 4」平尾アウリ)

私個人に関する限り、すべて不可能が消去された後に残るものが超自然であるとすれば、それは誰かが虚偽の申立てをしているのだ。それを裏切りと言わば言え、大いに活用すればいいのである。(「黒後家蜘蛛の会 1」アイザック・アシモフ)

アシモフさ。ぼくの友だちでね。SF作家なんだが、こいつが病的な自惚れ屋なんだ。パーティにこの百科事典を担いでいくんだよ。で、こんなふうに言うんだ。「コンクリートって言えばね、コロンビア百科事典のわたしの項の、ほんの249ページ後に実に行届いた説明が載っているよ。ほら、これだ」で、やつは自分の項を見せるのさ(「黒後家蜘蛛の会 1」アイザック・アシモフ)

「自殺する者は」とりとめのない言葉を、エドは口にした。阿片が彼の自制を取り払ったのだろう。「そう運命づけられている。自覚するしないにかかわらず。非適応性を持って生まれついたのが、罪か。あらゆる失望、あらゆる経験を嘗める前に、自殺すべくさだめられている」「喋らないで、エド」ナイジェルが眉をひそめた。「不幸と同様に、幸福が人を自殺に追いやる。いや、幸福の場合の方が多い。なぜか。摑み所のない幸福に適応するのは、疲れ果てるからだ。不幸の厳しさの方が、まだ耐えられる」(「開かせていただき光栄です」皆川博子)

「その通りだ。人間が年長者に抱く感情や態度には、何段階かあるんだけどな」「決まっているのか」「細見氏が言うには、まずは、『尊敬』だ。子供は、目上に対して、まずは一目置くわけだ。『尊敬』と『信頼』を抱く」「なるほど」「それから、少しずつ変わっていく。順番に言えば、『尊敬』→『信頼』→『反発』→『軽蔑』→『侮り』→『諦め』→『許容』→『同化』となるわけだ」(「ガソリン生活」伊坂幸太郎)

すべての情報が「有用です」という仮面を付けていると、何もかもが並立化してしまい、何が自分にとって有用なのかについての判断を強いられる。私はもう判断したくなかった。だからこそ、時代も違うし国も違う、そして内容にほとんど有用性がないコロンボに逃げたかったのだ。(「レコーダー定置網漁(現代生活独習ノート)」津村記久子)

考えろ考えろマクガイバー。(「魔王」伊坂幸太郎)

兄貴は負けなかった。逃げなかった。だから、俺も負けたくないんだよ。馬鹿でかい規模の洪水が起きた時、俺はそれでも、水に流されないで、立ち尽くす一本の木になりたいんだよ(「呼吸(魔王)」伊坂幸太郎)

くまささんわたしの代わりに近くで舞菜見て そしてその角膜を私に移植しろ(「推しが武道館いってくれたら死ぬ 5」平尾アウリ)

空音ちゃんがアイドルじゃなかったら僕は好きだってきっと言えなかったし …でもアイドルだから僕は空音ちゃんのファン以外の存在にもなれないんだけど… 好きって言わせてくれてありがとう(「推しが武道館いってくれたら死ぬ 5」平尾アウリ)

目を合わさなきゃ見られてるかは分からないじゃないですか! シュレディンガーのりょーちゃんなんです!(「推しが武道館いってくれたら死ぬ 6」平尾アウリ)

「渡部の親父さんの言葉は鋭いよ。『光あるうち光の中を歩め』っていう小説があるだろ。あれを真似れば、『生きる道があるかぎり、生きろ』ってことだ」「どういうことですか」「死に物狂いで生きるのは、権利じゃなくて、義務だ」(「終末のフール」伊坂幸太郎)

俺の趣味じゃない。俺はな、優雅に飛んでる鳥が落っこちたりするのを見て溜飲を下げるよりも、絶対に飛ばないような牛が空飛ぶのを眺めて、爆笑するほうが好きなんだ。面白みを感じるんだよ(「あるキング」伊坂幸太郎)

香典は渡しに行ったが、葬式には出なかった。縁は切れても、最後の最後で追いすがるように自分を印象づけるところが、子供心にも感じていた、この人は淋しがりだということが了解できて父親らしいと思った。なのでわたしは、淋しがる男の人がどうも苦手だ。曲がりなりにも、「淋しい」と口に出せる人ならまだしも、淋しいなりにそのことは明かさず、物欲しげに人のにおいの周りをうろつくような男の人を見ると、親指の腹で圧し潰したくなる。(「二度寝とは、遠くにありて想うもの」津村記久子)

舞菜のこと見つかってほしかったけど 舞菜の見つかった世界にわたしがいることを想像してなかった(「推しが武道館いってくれたら死ぬ 9」)

いい? 久美子ちゃんが緊張すんのは、失敗しちゃダメやって思うからやねん。そうじゃなくて、こう思ったらいいわけ。我の超絶テクニックを見よ! って(「響け!ユーフォニアム 1」武田綾乃)

でも、頑張ったんはほんまやねん。なあ、結果が出えへんかったら、努力ってなかったことにされてしまうん? あのときのうちらの演奏、ほんまにほかの金賞の学校より劣ってた?(「響け! ユーフォニアム 2」武田綾乃)

自信つーか自覚持った方がいいよ 舞菜のことが好きだって信じてもらえないオタクたちだってかわいそうだし(「推しが武道館いってくれたら死ぬ 11」平尾アウリ)

「帰るべき故郷、って言われるとさ、思い浮かぶのは、あの時の俺たちなんだよ」森田森吾は目を細めた。彼の視線の先をずっと辿っていけば、どういうわけか時間が歪み、学生時代のファストフード店で雑談に明け暮れる二十代の自分たちの姿に行き当たる、そういうようにも見えた。(「ゴールデンスランバー」伊坂幸太郎)

前野嬢も忘れているのではなく、考えないように努めているのだろう。こんな余計な手間をかけず、さっさとお金をもらっちゃおうかと迷うときもあるはずだ。そんなとき、彼女の頭には、アパートのゴミ捨て場から拾ってきたラジオのか細い音声に、独りで耳を傾けていた暮木老人の姿が浮かぶのではないか。そして思うのだ。おじいさんが何をして、どんな想いでこのお金を貯めたのか知らなくちゃいけないと。(「ペテロの葬列(下)」宮部みゆき)

ペテロがもっと臆病な人だったなら、嘘をつかずに済んだのよね。勇気と信念があったばっかりに、恥に苦しむことになった。正しい人だったからこそ、罪を負った。それが悲しい、と言った。嘘が人の心を損なうのは、遅かれ早かれいつかは終わるからだ。嘘は永遠ではない。人はそれほど強くなれない。できれば正しく生きたい、善く生きたいと思う人間であれば、どれほどのっぴきならない理由でついた嘘であっても、その重荷に耐えきれなくなって、いつかは真実を語ることになる。(「ペテロの葬列(下)」宮部みゆき)

嘘が人の心を損なうのは、遅かれ早かれいつかは終わるからだ。嘘は永遠ではない。人はそれほど強くなれない。できれば正しく生きたい、善く生きたいと思う人間であれば、どれほどのっぴきならない理由でついた嘘であっても、その重荷に耐えきれなくなって、いつかは真実を語ることになる。(「ペテロの葬列(下)」宮部みゆき)

子供の頃の時間は、電車の景色のようだったと思う。もうちょっと意味のあることをしたい、とあがくのではなく、ただ、起こることを受け入れて楽しんでいた。こどもの日に、子供の頃の自分が何をしていたのか、わたしはほとんど思い出せない。ただ、五月人形が部屋に飾ってあって、おやつを食べて、おもちゃを買ってもらって、近所の友だちと遊んで、楽しかったな、と思う。(「まぬけなこよみ」津村記久子)

「短期的にはつらくても、大局的にはいい結果になれば」「何ですかそれ」社長賞でもらったありがたいお言葉? 「わたしの父がよく言ってたのよ。『短期的には非難されても、大局的には、大勢の人を救うことができればそれでいい』って」(「クジラアタマの王様」伊坂幸太郎)

「ええねんて」久美子の言葉を遮るようにして、夏紀はきっぱりと言い放った。声に潜んだわずかな威圧が、久美子から反論の言葉を奪っていく。そこには、未練があった。コンクールという晴れ舞台への、執着もあった。だけど、夏紀はそれを言葉にしない。本心を隠すべきだと、聡い彼女はわかっているから。「あすか先輩が本番で吹くことが、この部にとっていちばんええねんから」 そう、夏紀は言った。その眼差しのまっすぐさに、久美子は思わず目を逸らした。(「響け! ユーフォニアム 3」武田綾乃)

飢えているんだ。それほど深く、ひどく飢えているのだよ。その飢えが本人の魂を食い破ってしまわないように、餌を与えねばならない。だから他人を餌にするのだ(「名もなき毒」宮部みゆき)

いえ、覚悟はつねにできています。ただ私は戦闘機という機械に乗りたかっただけで、その戦闘機の飛ぶ空が<護国の空>だったのです。私には、いまでも順序が逆なんです(「幽玄F」佐藤究)

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