槍ヶ岳・穂高岳(2024年GW・下)

多くの場合、写真は文章より遥かに雄弁である。カメラロールを眺めていてそういう気持ちにならざるを得ず、ここでの添え物としての文章はとにかく非説明的に、と心掛けたい。

5/3-5の3日間、好天の予報を見て北アルプス南部に入った。5/4夜の山荘予約は当初満室の表示が続いていたが、4月の末にふと覗いたところ穂高岳山荘にて残室1と出ており、慌ててWeb予約を入れた。ここから起算する形で、5/3上高地入山、槍ヶ岳山荘泊。5/4穂高岳山荘泊。そして5/5上高地下山、帰着が決まった。さらに5/3の入山から逆算すると5/2の前泊もまた不可欠であり、木曜日は18時前に仕事を切り上げ、相模原から塩尻まで一路バイクを走らせた。

翌5/3、バイクは茶嵐に停め、ほぼ満員のシャトルバスの補助席に座って上高地に入る。シャトルバスは沢渡を5時に出る第一便。しかし到着した観光センター付近はすでに人の数が目立つ。明神、徳沢、横尾と特急列車のように駆け抜けて、私は槍沢まで止まらない。

ババ平でアイゼンを付けた。ここからは遮るもののない雪原となる。


雪原は徐々に斜度を増し、地面が向こうから折り返されてくるかのようにすら感じる。それでも足はなるべく止めず、先行者を一人また一人と追い抜いていく。気温の上昇とともに雪は軟らかく崩れやすくなるものの、技術的な要求度は高くはない。ただ喘ぎ喘ぎ高度を稼いでいく。

山荘に着き、自販機でペプシコーラを買って飲んだ。炭酸による空気を胃から吐き出して一服。そして、ザックをデポして穂先に上がった。下から観察する限りピッケルは不要と見られた。アイゼンも、10ある行程のうちの1のために付けているようなものだった。

北アルプス中北部に思いを馳せる。

中央部分の白色が跨っている部分が10のうちの1、アイゼンが必要になる場所。それ以外はただ岩で刃を磨り減らすのみである。

山荘の大部屋からは常念山脈が見えた。あれから早くも雪の量が減った。夕食はエビチリ、春巻き、シウマイなどが出た。白米を一度だけお代わりした。文庫で持ってきていたアガサ・クリスティ作、「秘密機関」を読み、眠りについた。

 
翌朝、4時過ぎに山荘を発つ。大半の荷物は山荘前に置いて、アタックザックのみ担いで大喰岳を目指した。穂先では日の出を見ない。穂先が明るくなるのを、対岸から見たかった。

ブルーアワーは短く、あっという間に橙色が東の空を支配していく。

大キレット、穂高岳に連なる南方の稜線。真っ赤には染まらないが薄い桃色のように見た目を変えていく。朝のうちだけ風が強かった。

穂先は、想像していたようには明るく灯らなかった。ちょうど大喰岳と反対の方角から見られれば、あるいはそういう瞬間があったのかもしれない。次第に風は和らいだ。日の出を穂先で見た面々が下りてきたであろう頃合いを狙って、最後にもう一度頂上に立った。

東鎌尾根、常念山脈。穂先から見るとピラミダルな常念岳の山容が目立って、大天井岳よりも高いピークのように思える。

穂先の最後の梯子付近に立って南方の視界を検める。笠の懐に槍の影が落ちる。白山も近い。一週間前の自分と立ち位置が入れ替わったかの如く。

大喰岳、中岳、南岳、大キレット、北穂高岳。この日の目的地である穂高岳山荘には、大キレット経由で行くことも不可能ではない。しかし北穂高岳から涸沢岳の区間が曲者と予想された。計画段階から、横尾に一度下りることを前提とした。

鯉ものぼる。

槍沢の下りは今回歩いた中では歩きやすい部類に入ると感じたが、この連休中にもここで事故があったと聞く。私が歩いたのは太陽が高度を増した後で、硬すぎず軟らかすぎず、程よく締まった雪質だったことが奏功したのかもしれない。

いかにも鎮座しているといった風な穂の先端に別れを告げて、ババ平の手前、谷に隠れた日陰の区間へ急ぐ。暑くて暑くて敵わない。ぐんぐんと標高を落としていく。10分間で300m近く高度を落とせるのは雪の斜面だからこそ。

槍沢からは快速で飛ばすが、往路と異なり横尾で小休止。自販機で炭酸飲料を買い、喉を潤した。ここでコースを変えて涸沢方面に向かう。野生の猿がもはや我が物顔で闊歩しており、橋の欄干やそこここに糞が散らばっている。

本谷から雪渓歩きとなりアイゼンを付け直した。涸沢まで一息。追い抜いても追い抜いても涸沢までは人の流れが止まらない。涸沢のテント群、そして向こうの斜面に点のように散らばる登山者たち。

北穂高岳に向かっていく登山者も少ない数が下から見えた。

連日の1,500m上昇は流石に身体に堪えて、斜面を進む足が止まりがちになる。それでも無心で登ろう登ろうと続けていて、ふと我に返ると想像以上に角度が急であることに顔が引き攣る。素手で雪を掴むように歩いていると手だけは冷えて、これはいけないとピッケルと手袋を取り出した。

前穂高岳周辺をヘリコプターが周回していた。人が降下しているのが見えた。

穂高岳山荘で少し遅い昼食とした。槍ヶ岳山荘でもらったお弁当(中華ちまき)を食べ、よく冷えたコーラを胃に流し込む。白出沢に面した側で静かに食べた。白出沢を下りていく人が一人だけ見えた。

昼食後、やはりメインのザックはデポして、奥穂高岳の頂上にアタックする。山荘の前に岐阜県警から来ていると思しき人が居り、奥穂高岳に向かう、あるいは帰ってくる登山者を仁王立ちで観察していた。二箇所の雪壁は特に下りが難しく、存外に精神を消耗して山荘に帰った。夕飯は魚、コロッケ、パスタ、角煮などが出た。やはり白米を一度お代わりした。「親指のうずき」を読んで眠りについた。連日のクリスティである。

朝。4時半前に山荘を出て、この日もやはり奥穂高岳とは反対方向、涸沢岳のピークに立つ。今日は北穂高岳の向こうから橙色が広がってくる。

前穂高岳、奥穂高岳。目が覚めるような赤色に染まるモルゲンロートにもう出会えないのは、真冬ではないからか。しかしじわじわと桃色の面積が増していくのを見るにつけ、そこにはそこの神々しさ、人と本質的には相容れない奥行きがあるのを見る。


朝から風は終始弱く、涸沢岳の頂上周辺に思わぬ長居をしてしまった。じっと下を眺めていると、斜面を僅かずつ動く、豆粒のような黒い影がところどころに見え始めた。

山荘から奥穂高岳までの区間には、ピッケル必携の雪壁が二箇所ある。アタックザックのみで登った前日と異なり、全ての荷物を背負っていること。そして気温が低いうちは雪壁が硬く場所によってはピッケルが刺さらないこと。そうした要因がとりわけ慎重に進ませた。今日も岐阜県警の人が山荘から見上げている。この時間、ジャンダルムに人影はない。カメラをズームして見ると、天使のレリーフの存在は確かに目に入った。

前日午後はやや雲の数が目立ったから、朝の快晴の空の下に見る眺めがまた心を揺さぶり直した。昨日と今日で、3人に写真撮影を依頼された。槍の方向よりは、ジャンダルムや上高地側を背景に入れるのが人気のようだ。お返しにあなたも撮りましょうか、と問われるが、普段の習慣で固辞してしまう。

霞沢岳と焼岳は互いに自分の居場所を強く主張し合って、梓川はその間を気まずそうに流れているように見える。

吊尾根を渡る。もっとも歩く距離の短い最終日は、しかし一番の集中力と緊張を要した。

難しい雪壁、トラバースが数か所。そして、本当に難しい場所の写真は残らない、残している余裕がないものである。上高地から双眼鏡を覗いている人がいれば、斜面にへばり付く私の姿は滑稽なものに見えるのだろうか、と空想する。

紀美子平の手前、それまで比較的分かりやすく残っていたトレースが忽然と消えた。それでも目を皿にしながら雪氷を踏み渡り、そこで気がつく。紀美子平から前穂高岳に上がるわけではないのだと。見ると前方には硬そうな雪の壁が続いている。夏道をここで逸れて、浮き岩を渡る直登コースに切り替えた。アイゼンをしまい、ピッケルも邪魔になるのでザックに結び付ける。

どれだけ大きく安定しているように見えても、踏み均されていない岩はときにグラグラと揺れて、冷や汗をかく。やっとの思いで前穂高岳に着くと、ダイレクトルンゼを上がってきた登山者が数名居た。

奥穂高岳から西穂高岳。こうして後ろを振り返って改めて感じる以上に、吊尾根は難しい道だった。またいつの日かと連嶺に別れを告げ、奥明神沢のトレースをなぞる。

明神岳に登り上げるトレースの恐ろしく急なこと。こちらとて緩やかとは言い難い斜面上にいるのに思わずカメラを向けてしまう。

ノドの部分を少し下った箇所。雪が中間で切れていて、その穴をかわさないといけない場所があった。そこ以外は、基本的に登りのステップを追って、それを崩さないように崩さないようにと慎重に踏んで高度を落とす。


実在感をもって岳沢小屋を感じられる高度まで気は抜けない。引き続き天気は安定しており、緩み始めた雪質を辿って奥明神沢を登りにかかる登山者と時々スライドした。

厳めしい嶺々に囲まれているためか、岳沢から上高地まででもまだ600m以上は標高を落とすのに、秘密の箱庭のような場所に下り立ったように錯覚する。

上高地が近づくにつれ、雪山の装備とは無縁な軽装のハイカーとのすれ違いが増え始める。そして、外国人観光客の多いこと。河童橋周辺は人の海で、2日続けて風呂に入っていない体でのすれ違いには居た堪れない気持ちになる。

12時ちょうど頃には茶嵐を出発したにも拘らず、大月の先で渋滞に捕まり、結局相模原に着いたのは日暮れ前のことだった。かくして、2024年のGW下編も無事に終了。前半戦の白山と合わせて、充分に歩ききったと言えるだろう。しかしもう当分高い山は望まない、そういう気持ちになっている。アイゼンはそろそろ爪の摩耗が激しく、新調が必要かもしれない。

GW期間、北アルプスではやはり数件の遭難事故があったと報道で見聞く。昨年は同時期に奥明神沢での滑落事故があった。そうした事例と自分を対照して、それらと自分を分かつ壁は根本的には存在しないのだろうと、冷えた頭で考える。そして、そうした事実は、目下、足を止める引き金にはならないのである。

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