藤原岳・竜ヶ岳


ふだんは小説を消費するように読んでいるばかりだが、ふと、なにかきっかけがあったわけでもなく、山岳紀行文を手に取りたくなった。図書館で「山と渓谷」(田部重治)と「山のパンセ」(串田孫一)を借りた。いくつか目を引く文章があった。明治から昭和初期、登山人口が少なかったであろう時代の勇ましい冒険譚のような紀行文に、現代ではよく見知った山岳の具体的な名称が登場するのを見るのは、不思議な気分だった。自分と親しいものをそこに見るような、それでいて、同じ対象を介すからこそ、むしろ時間という長い距離を強く意識させられるような。

登山で哲学的な思索に耽り、それに成功したと言えるような体験はしたことがない。振り返ってみると、山ではとにかく無心で足を動かし、それによって生じる頭のなかの空白を自分は愉しんできたように思う。なにかを考えるパートは登り始めるまで、より正確には家を出るまでに詰め込まれている。どこに行くか、なぜそこに行くのか。漠然とした行動の欲求にぴたりと当てはまるような行き先を見つけられたとき、自宅に居ながらにしてその山行の半分くらいの満足感はもう得られている。そしてその、出発を前にした思考の中にこそ、自分という人間がもっとも隠しがたく現れているように感じる。

1月の中旬の、一日限りの、僅かな間だけ高気圧に覆われる機会をどのように使うべきか。高気圧が兎角すぐに去ってしまうこと、それが日曜日であること(つまり、翌日には仕事に出ないといけない)、好天となるのは緯度にして概ね南東北より南部であること、標高の高いところでは風が強い予報となっていること。これらの要素を頭のなかに敷き詰めていき、そこに自分の力量を乗じると、浮かび上がる案はさほど多くはない。

この週末に関しては、粟ヶ岳と、乗鞍岳、そして鈴鹿山脈の藤原岳が最後に残った。金曜日の夜までかけて思案し、藤原岳に行くことにした。竜ヶ岳までの縦走を予定したが、それでも挑戦的な試みに気持ちが傾いたというよりは、比較的短時間と予想される好天からどれだけの効用を得られるかという、実利を選んだような趣がある。いつか訪れたいと思っていた三岐鉄道の三岐線、北勢線の両路線をあわせて目的にするという実利を。

朝、東から射す日の光に染まる藤原岳の斜面。前日の降雪がときおり木々から溶け落ちては、バラクラバの隙間から入って首の裏を冷たく叩く

次第に足下の雪の量が増えてきて、息を上げながら稜線を目指す。その途中、木々の合間から、朝靄に白い頭をもたげる伊吹山を見る

藤原岳の頂上。比良山系から白山、アルプス、御嶽山などを一望する。目立つピークはどこも青空の下にある一日だった


竜ヶ岳、御在所岳方面の山並み。暖冬ゆえか、いくら前日に雪が降ったとはいえ白銀と称す程には至らない

しかし樹林を歩いていると思わぬ深い吹溜りに足を突っ込むことがあり、また午前中深い時間になってもまだ豊かに雪を載せる霧氷帯があり、鈴鹿山脈の底力を見る

埋もれるような雪量ではないからと、強引に太腿でかき分けて道を作っていくと、その工程は意外な程に体を消耗させる。木々の中を時折弱く風が吹いて、火照る頬を冷ます

木々の隙間から射す光芒に目を細める。消耗は誤魔化しの効かないものとなって、銚子岳、静ケ岳のピークに立ち寄るということは少しも考えず、ただ竜ヶ岳の頂上を目指した

昼下がりの竜ヶ岳は大量の登山者で溢れていた。暖かな陽気に溶け出した雪が見せる泥濘の有様も相まって、足早に頂上を去った


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しかし私たちが山を観ずる態度は、浪漫的な詩人あるいは象徴的な詩人が自然に対してするように、自己を歌わんがために自然を主観的な材料として用いるようなものでなくして、山を山として客観的に観じつつ、自己との一致を見出すことでなければならない。(「山を憶う」山と渓谷より)

また、「秩父の旅」の「かくして喜んで去った塵の都に、またしても喜んで帰る」という表現には時代を越えて大きく共感し、もう一冊の「山のパンセ」では、著者が戦前にドイツ人の友人と連れ立って上越国境へ山スキーに出たという話(山スキーに関する簡潔な描写、帰りの汽車でそのドイツ人の青年が満足そうに煙草を吸ったというくだり)が強く印象に残った。

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