画像データが消えてしまった。
いや、全ての画像、100%分が消滅してしまったということではなく、現にこのページに出ているような、良く撮れていると思ったものは先にバックアップを取っていたので、それだけは残っている。しかしおそらく350枚ほど撮っていた中の十数枚なので、虚しいものは虚しい。これらのバックアップは、言わば下りたてホヤホヤのときに、やや熱っぽい頭で選択した画像で、2~3日経ったあとに「あれ、意外と面白い写真が残っていたんだな」と気付いて目に留まるほかの画像もきっとあっただろうに。
反応の悪いSDカードを抜き差ししている間に、いつの間にかデータが消えてしまった。空になったSDカードは、まるで溜まった膿を放出しきってすっきりしたかのように、すんなりと認識されるようになった。
それで、上越国境。
越後湯沢にて前泊し、この前の2月にも利用したAM5時35分越後湯沢駅前発の路線バスに乗る。苗場スキー場へ行くバス。やや不可解な時間設定だが、少なくとも年に2人は利用者がいる。2月の私と、12月の私。平標登山口のバス停に着いても、周囲はまだ暗い。松手山を経る夏道の上にトレースが付いており、そこを辿った。2月は岩魚沢のゲート過ぎからヤカイ沢沿いに歩く必要があった。
快晴の予報をよそに、上空にはガスが広がっているように見えた。松手山のあたりでは、まだ期待よりも不安が優勢だった。ガス帯のさなか、ずいぶん久しぶりにブロッケン現象に遭遇した。わんわんと幾重もの虹に包まれていくあちらの自分。なにかこの後を期待させるような、良きものとして見えたのに、実際は朝にブロッケン現象が見えるのは、天候悪化の前兆という方が一般的らしい。
風に押し流されて、薄く稜線を這っていたガスが徐々に消えていく。抜けるような青空に、周囲の銀嶺。明け方の不安は何だったのかと思えてくる。
テーブルのような苗場山を背景に、稜線を登山者が歩く。山肌にはまだちらほらと植物の影が残っていて、これはどうにも初冬というような見え方を禁じ得ない。稜線の地肌など問答無用で雪の中に押し込むような猛烈な積雪があってほしい、ありそうな場所なのに。
平標山から仙ノ倉山への稜線。微風で、漂うぴりっとした冷気が心地よい。ガスが澱みを全て流してくれたかのように、空気も澄み切っている。
木の階段が一部露わになっていて、雪の少なさをそこかしこで突き付けられる気分だった。アイゼンを引っ掛けないように、雪面を選んで進む。
先を行く登山者。
この稜線はユニークなシュカブラが目に留まる。南方向、遠くは浅間山、おそらくそのさらに先は八ヶ岳だろうか。
逆の方角にも同様に雪紋が目立つ。
仙ノ倉山まではトレースもしっかりと付いており、アイゼンだけで問題なく歩けた。さて、ここからはどうなるか。時間はまだ問題なく、それに予想外に自分以外にも国境稜線を先に進む人がいた。鞍部から万太郎山までの登り返しは苦しそうだが、目を凝らすとトレースのようなものが見えないこともない。後々、これは見間違いだと判明するわけだが、エビス大黒ノ頭までは前向きに歩き出した。
エビス大黒ノ頭から少し下った箇所より、万太郎山・谷川岳方面を見る。2名居た先行者は、いずれもエビス大黒ノ頭で折り返すようだった。遠目に見えたつもりだったトレースも、雪紋の具合でそんな風に見えただけで、結局トレースではなかった。自力のルートファインディングに、猛烈なラッセルを強いられることは目に見えている。それでもこの好天、コンディションを考えると、戻り難かった。万太郎山まで行けば吾策新道はトレースがあるだろうこと、そして体調面と時間のそれぞれの手持ちの余裕を考慮して、当初の予定通り万太郎山まで進むことにした。
雪庇から距離を取りつつ、安定していそうな雪面を選んで踏んでいく。大振りのワカンを持っていたが、途中まではむしろ付けないほうが機動的に進めるくらいで、少し歩いては振り返って、誇らしげに自分の作ったトレースを眺めた。仙ノ倉山はもうあんなに遠い。ここから引き返すなんてことは流石に考えたくないな、と思いながら、しかし想定以上に時間を要していることも薄々感じ始める。
とりわけ狂気のラッセルという様相を呈したのは、万太郎山の頂上手前の数百メートル。風が強まり始めたことも相まって、消費するエネルギーの割に高度も距離も全然稼げない。10分おきに標高を知らせるGPSアプリが、20~30m程度しか上昇していないことをご丁寧に教えてくれて、これはまずいぞ、という思いが強まる。それでも、歩いては腰まで埋まり、やっと体を立て直してまた歩行を再開しようとするとまた腰まで埋まる。何度も発狂し、悪態をつき、強風に声を乗せて、ついに万太郎山に辿り着いた。そこで無心に撮った画像の多くが、消滅した。
上越国境、主脈縦走路は谷川岳まで続いていく。予想していなかったことに、吾策新道のみならず主脈縦走路にもトレースがある。平標登山口から、谷川岳までトレースが繋がった。
遠く土樽方面が見渡せる。あそこまで下りていかないといけない。乗るべき列車は16:59発とこの時期にしては深めの時間帯のものだったから、事前の段階では余裕を持って到着できるだろうと思っていた。何なら列車の待ち時間に読み途中の文庫本を読み切れるだろう、とも。しかし現実はどうも雲行きが怪しい。コースタイム通りに歩くと時間切れ、少なくとも夏の標準時間の8割程度の速度を維持する必要がありそうだった。
明け方に登り始めて、夢中で雪稜を踏み、気がつけばもう西に日が傾いている。これほどの好天はこの時期には儚いもので、翌日にはもう冬型の気配が忍び寄り、そういったサイクルを繰り返して稜線は白銀の厚みを増していく。冬山の下りは、雪が安定してくれていればサクサクと進めるのでそれは楽しい。一箇所、1,700m付近にやや危険なルンゼ状の地点があった。
誰かの匿名の作品は、なんだか引き攣った笑顔にも見えて、それは「列車に間に合いますか?」と自問して「は、はい」と強いて答えようとする自分の心情を想い起こさせて、つい足を止めてカメラを向けた。
無人の土樽駅には、スプリンクラーが流れるちょろちょろという音だけが響いていた。着いたのは列車が来る5分前だった。これでは計画性の不足、予測の甘さを指摘されても仕方がない。列車が来る前にゲイターを外すのは諦めて、越後湯沢で下車した後にいそいそと片付けをした。スキー客の姿はまばらで、帰りの新幹線も往路ほどには混雑していないようだった。
なかなか長い距離を歩いた一年だった。これまでのどんな一年よりも長い距離を歩いたはずだ。年始、屋久島で腐り雪の踏み抜きに発狂して、年末は上越国境の新雪ラッセルに発狂する。発狂から発狂へ。上手く収まったように無理やり思えなくもない。25歳が終わり、26歳になった一年だった。山を歩いている最中に、「若さを燃やしている」と思える局面が明らかに少なくなった。燃やし切るほどに若さをきちんと使ってあげられたのだろうか。よくいわれる言説に、「山は逃げない」というのがある。そこに付け足したい。「しかし、若き日々は逃げていく」。
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