横通岳・東天井岳

常念の東尾根から稜線を目指して、未踏の百高山を2つ踏んできた。

4月の2週目から3週目にかけては仕事が年間でもっとも忙しい。正直なことを言えば週末は家でゆっくり過ごしていたかった。そうは言っても天気図が登山日和を告げているならばどこかに行かないとという気持ちになるのが性で、残雪期の面白さと適度な満足感を持って帰れる場所として常念山脈に目をつけた。常念山脈は本当に久しぶりだった。燕山荘の冬季小屋から大天井岳まで歩いたのがもう3年前である。

同じ道を歩くのではなく、今回は山脈でもう一つ冬季小屋を開放している常念小屋を使いつつ、大天井岳の南側の百高山2つを踏むことを目標とした。雪中幕営をする前提であればもう少し選択肢が広がるものの、やはり荷物の重量を考えるとどうしても躊躇われて、結局目的地の傾向というものが時間を経ても似通ったものとなってしまう。

小仏トンネル手前の大渋滞に、一度はこのまま帰宅しようかとすら思うものの、なんとか安曇野まで辿り着いて、須砂渡ゲートから歩き始める。鉄塔巡視路の入口から車道を逸れて、東尾根に取り付いていく。

標高1,700mくらいから足元に氷や雪がちらほら目立つようになり、それでも騙し騙し歩いていたが、森林限界を超えたところでようやくアイゼンを付けた。トレースが多く、むしろ森林限界を超えてしまえば一安心という感があった。標高1,700~1,800m程の樹林帯の区間では薮にルートが隠され、藪を思い切り薙ぎ払いながら強行突破せざるを得ない箇所があった。両腕に細かい切り傷がたくさん残った。

この日、東尾根で見かけた雷鳥は一匹のみ。目もとの赤色が愛らしい、雄の雷鳥だった。

まさに這い上がるようにして前常念岳に辿り着く。ここで三股からのルートと合流する。下を覗くとどうやら三股ルートにもトレースが刻まれているようだった。

残りは常念岳までクールダウン、という程ではないにせよ比較的歩きやすい、空中散歩といった趣の道が続く。何人かの下山者とすれ違った他は、森林限界の少し上で幕営者を追い越したのみで、多いトレースの割には人の気配のない、寂寥感のある道のりだった。

常念岳の頂上に立つ。槍、穂高を一望する。前にここに来たのは、季節としては晩秋という頃で、そのときも槍はうっすらと雪化粧をしていたが、それに比べればこの時期の槍の方がまだ冬の顔を強く残す、より厳めしい迫力でそこに立っていた。大キレットが作る隙間の向こうに当時見えた白山は、今回は見えなかった。蝶ヶ岳の方に少し進まないと見えなかったかもしれない。

蝶には向かわず、逆方向、常念小屋へと下りていく。もっとすぐそこの肩のような場所に小屋がある印象でいたから、常念岳から400mも標高を落とすというのには驚かされた。その400mは結局翌日に取り返さないといけないものである。小屋まで、岩9割雪面1割といった路面状況なるも、煩わしいのでアイゼンは付けたままの状態で進んでいった。

常念小屋の冬季開放小屋は、玄関は分厚く雪に覆われており、窓から入らざるを得なかった。そういう入り方がもともと想定されているようで、窓には冬季入口と書かれたシールが貼られていて、カラカラと音を立てて簡単に開いた。雪を入れないように苦心して小屋に入り、ポストに2,000円を捻り入れる。晴天の週末だから他にも何人か来るかと想像していたが結局利用者は自分のみで、ゆったりと過ごした。

 
槍の向こうに陽は落ちていく。

翌朝。黄砂のせいなのか、大気が霞んでしまっていて、あまりモルゲンロートといえるような見え方はしない。太陽が出てくる前になんとか横通岳に着きたいと少し足を早める。大半の荷物は常念小屋のアンテナのところに置いてきて、アタックザックのみ背負っている状態なので足取りは軽い。


春霞のせいでご来光という感じはあまりせず、赤色の丸がぽっかり宙に浮かんでいるような日の出だった。横通岳に長居はせず、そのまま東天井岳へと向かっていく。稜線を歩いているとたまに雷鳥の鳴き声が聞こえてくるが、少し外れたところに居るのか、その姿を特定するには至らない。

振り返って、横通岳と常念岳。

東天井岳に着いた。頂上にはぽつんと木の板が残されていて、目を凝らすとそれと分かる、東天井岳の文字が薄く刻まれていた。このまま、常念山脈の最高所である大天井岳まで歩き通せば、山行としても何となく収まりが良い気がしたものの、持ってきた水の量を考えると追加で4km歩くというのはリスキーに思えた。逡巡の末、計画通りここで引き返すことにした。

雷鳥の番がいた。

苦しいのは常念小屋からの登り返し。ここでメインのザックも背負い直すことになるから、ここからが最後の正念場。息を切らして登り上げた常念岳のピークは、この日も無人で、ここからの槍と穂高を最後に目に焼き付けて帰った。

下山はスピーディー。笹藪帯を過ぎた先でいよいよ水を飲み干してしまった。春にしては暑いなかを延々と下る東尾根は体力よりはむしろ喉を蝕んで、須砂渡に着く頃には息も絶え絶えだった。温泉に浸かることもせず、バイクをコンビニに走らせた。帰路も小仏トンネルで渋滞するのを儀礼的に通過して、明るいうちに帰り着いた。月曜日、ふわふわとした気分で会社に向かう。24時間前に自分は北アルプスの稜線に立っていたのだぞという思いが、声にしないまでもわんわんと脳内に響いている。

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ここからは、2月から4月上旬の山行をダイジェストにて。

2月、粟ヶ岳の後は岩木山と八甲田山(大岳・小岳)を歩いた。土曜だけ晴れてくれれば岩木山を歩けて、それで充分だったのに、日曜も晴れてしまった。日曜は太宰治の生家に行って、津軽鉄道のストーブ列車を楽しもうと思っていた。しかし快晴であるならばそれは勿体ないと思って、目的地を八甲田山に変えた。雪少なく、樹氷はほとんど育っていなかった。



3月、最初の週末は武奈ヶ岳に行った。前日は大津周辺を歩いた。「成瀬は信じた道をいく」を読了したあとで、ミシガンクルーズも楽しんだ。船は定検中のためミシガンではなくビアンカだった。下船後、近江牛コロッケ定食を食べ、きらめき坂も歩いた。近江舞子で一泊し、翌日、武奈ヶ岳はよく晴れた。日焼け止めを忘れていったので、翌日は肌がひりひりした。下山後は京都を少し散策し、学生時代によく通ったラーメン屋も再訪した。

ビアンカ号にて。


次の週末は奈良の大峰山。登山日はアマゴの解禁の日付で、未明にも拘らず麓では釣人が慌ただしかった。前泊した天川村の民宿のおばあちゃんは、八経ヶ岳を歩くという私をずいぶん心配してくれた。早出すると言ったら豪華なお弁当に、これは特別よと言ってさらに大きいおにぎりも2つ持たせてくれた。冬の、それほど消耗をしない山行の途中では食べきれないほどだった。おにぎりは帰路、近鉄の橿原神宮前駅で列車を待ちながら頬張った。


その次の週末は北陸、金剛堂山。金曜夜は魚津にて前泊し、翌朝、越中八尾からタクシーで冬季登山口の上百瀬を目指した。車中、うとうとしていると、タクシーがまさか大きく道を間違え、飛騨方面に抜けようとしていた。慌てて道を戻るように依頼し、登り始められたのは結局予定より1時間も後だった。しかし奮起して奥金剛まで踏破、帰路はバスに間に合った。敦賀まで北陸新幹線が延びた日で、心なし富山駅も活況だった。富山のドーミーインに投宿したが、花粉症をこじらせたのか寝覚めが悪く、翌日は真っ直ぐ、粛々と帰宅した。


その次は美ヶ原と早池峰山。金曜日に突発的に有給休暇を取って、三城から美ヶ原へ歩いた。山本小屋なり上で泊まってゆっくりするのが理想ではあったが、帰りの送迎バスの時刻が合わず日帰りにした。一日空けて日曜日は岩手県、早池峰山にトライ。人の少ない門馬から歩き始めたが、トレース皆無の湿り雪の踏み抜きに難儀して、シーズンで一番苦しい山行となった。バスによるアクセスとしていたから、何時まででも留まれるわけではなく、頂上まで残り登り標高300mの地点で引き返すことになった。撤退は久しぶりだった。

朝、盛岡の開運橋から見えた岩手山。このときは良い一日の幕開けに心躍っていたのだが。


早池峰山の頂上を目におさめ、ここでリターン。歩きにくい雪質は樹林帯を抜けても変わらず、残り300mの標高差が遠かった。

4月の最初の週末はまたも北東北に向かい、今度は秋田駒ヶ岳と姫神山。秋田駒ヶ岳はアルパこまくさから、しっかりと付いたトレースをなぞって登頂した。まだBCスキーヤーの姿が多い。雪原となった頂上部を一通り歩いて、田沢湖畔の温泉宿に泊まった。翌朝、ゆっくり出ても姫神山の頂上にタッチするには充分な時間があり、好摩駅から往復した。春霞の向こうに岩手山の白色が覗いていた。


ゴールデンウィークはどこに行こうか。山陰の、吾妻山と道後山に行きたいという気持ちがあるが、船便なり宿なりの手配は何もしておらず、天気もどうなるか分からない。4月初めの、仕事が忙しい期間がようやく終わったので、この週末で少しでも考えを進めたいところではある。

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