相部屋での夜、2時半にアラームをセットしても結局2時の少し前にはもう目が冷めてしまう。そして、その後ふたたび眠りに落ちることはない。うっかり意識を飛ばして部屋にアラームの音を鳴り響かせるくらいなら、もう起きていよう。どうせあと数十分だけ睡眠時間が増えても山でのパフォーマンスは変わらないのだから。そんな思考が染みを広げていく。いささか窮屈な生き方をしている。
カラカラと宿の戸を開けると、昨日の雨模様はどこへやら、しんと静まった暗闇に夏の星空が広がっていた。おそらくはまだ床に入っていないのだろう、数人の客が外で星を見上げていた。頭上は、夏の大三角が目立つ。雄山の方角を見ると、その左の肩のあたりに土星が瞬いた。
土曜の夕方はほとんど豪雨という様相だったから、雪渓を除けば遊歩道がすっかり乾いているのは驚きだった。別にからりとした天気というわけでもない。ムッとした梅雨らしい空気だ。歩いている人の気配が少ないのもまた予想に反した。週末の予報が雨と晴れの順になるときは狙い目なのだろうか。前日の扇沢行きのバスの乗客は僕だけで、本当に7月の土曜の昼下がりだろうか。曜日を間違えていやしないかと疑った。未明、雄山まで、雪渓で男女のペアを一組追い越しただけだった。
前日の雨雲が尾を引いているのか、日の出の時刻を過ぎても太陽はなかなか現れなかった。大汝山の一番高いところに立って北側を見ると別山への尾根、剱岳、遠くには毛勝山が厳しく連なっていた。西の方に目を向けると大日連峰と仄かに光る富山の町並みが見えた。白山は雲の中に滲んでいた。ようやく雲を越えた日が射す頃には僕はもう大汝山から雄山に戻ってきてしまっていて、足元に咲いていたハクサンイチゲを何ともなしに撮った。
一ノ越から浄土山に向かって歩いていると、想像していたよりは歩く速度が遅くなっている気がしてきて、やはり睡眠が不足していただろうかと思い始める。睡眠時間が足りないときに山で何が起こるかというと、まあ普段はあまり大したことはなくて、若干歩くペースが落ちるのと高確率で頭痛が起きる。今回は頭痛薬を1回分しか持ってきていないのが不安の種ではあった。それに、扇沢に着く時間が遅れると信濃大町で特急を逃す可能性がある。色々と憂いても、まだなにかと取り返しは付くだろうと楽観的に捉えて、宿で貰った朝食の弁当の包みを開いた。
龍王岳の頂上で交差した登山客が一組いたが、結局彼らは一ノ越の方に戻っていったようだ。五色ヶ原を目指すのは僕だけらしい。朝のうちはガラガラと辺り一帯で聞こえていたライチョウの鳴き声も徐々に聞こえなくなって、ただ黙々と足を進めるようになる。その歩みは鬼岳で止まった。急な雪渓のトラバースが数十メートル。アイゼンとピッケルがあれば何とも思わないような場所だが、この日はチェーンスパイクを一丁持ってくるのみだった。斜面側の足を出すのになかなか苦心して、足場を固めながらトラバースを過ぎた。二度、軽い滑落をした。
五色ヶ原に着くと、視界の左隅に入ってくる山荘はミニチュアのように見えた。開けた視界に横たわる木道と、模型じみた建物。シーズンには少し早く、他に歩く人の姿はない。否、小屋開きに向けて準備を進めるスタッフが何名か居た。鬼岳のトラバースは大丈夫だったかと問われた。「ええ、ただ傾斜はまだまだ急ですね。アイゼンがあった方がいい」そう答えると、当たり前だというような表情をされた。チェーンスパイクで突っ切ったことには言及しなかった。
少しずつ時間のことを考える頻度が増す。扇沢のバスは一本までなら遅らせられるが、その場合は特急に乗る前に温泉に入れなくなる。扇沢にタクシーを呼ぶという案もなくはない。なくはないが、それありきでは動けない案だ。標高を落とすにつれ沢の音は強くなり、気温はぐんぐんと上がる。
ふと草木を鳴らす音に目を向けると、数匹の雛を連れた雌のライチョウが前を横切った。ここはほとんど黒部ダムのダム湖の近くの、標高の低い場所なのに。ハイマツなどなく、鬱蒼とした樹林帯なのに。さすがに別の種類の鳥との見間違いだろうか? しかし母親を追う雛の姿は見慣れた子ライチョウのそれだった。しばし時間のことを忘れる。そして思い出す。何時の電気バスに乗らないといけないのだろうか?
電気バスの時刻表を把握していなかったせいで、このままのペースで歩いて扇沢のバスに間に合うのかどうかが分からない。ロッジくろよんからは舗装路が始まる。最善を尽くすしかないので、つまり、走ることにする。観光客で賑わう黒部ダムの上も、脇目も振らずに走る。幸運にもちょうどよい時間の電気バスの便があった。間に合った。券を買って、肩で息をしていると、どっと汗が吹き出してきた。体の表皮に染み込んでいたのか、昨日の温泉の硫黄の匂いが汗と一緒に溢れてきた気がして、慌てて制汗シートで拭いた。人工的な甘ったるい匂いはそれはそれで鼻について、顔をしかめた。
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